キングス・チャペル
オリジナルの建物が建てられた1688年当時、キングス・チャペルはイギリス人を対象にした英国国教会としてスタートした。地元人たちは、清教徒にしか土地を売らなかったため、この教会は、公共の場所に建てられたという。後に18世紀になって老朽化が進み、1749年に修復作業が始まり、現在の石造りの立派な建物になった。現在も使われている鐘は、1772年にイギリスから運ばれたが、ヒビが入り、1816年ポール・リビアによって修復される。最初は英国国教会としてスタートした教会であるが、後にプロテスタントの一派であるユニタリアン派になった。しかし儀式自体は英国国教会式というユニークなミサをするらしい。
こういった歴史的な背景は、カンザスシティーに戻り、ガイドブックやインターネットで学んだもので、私達がフリーダムトレイルを歩いている時は、「これから先はまだ長い」とし、写真を撮っただけで、急いで次のスポットへと移動した。
キングス・チャペルの詳しい歴史が知りたい方は、教会が出しているホームページがあるので、そちらをどうぞ。
キングスチャペル墓地
ボストンで最も古いこの墓地は、キングス・チャペルのすぐ隣にある。ここにはあまり観光客がいなかった。ここも写真を一枚撮るだけで済まし、私達は足早に去った。
ベンジャミン・フランクリンの銅像
リターンの法律は何ですか
私の勘違いが始まったのは、このあたりからである。私が持ち歩いたインターネットのコピーには、キングス・チャペル墓地の後のフリーダムトレイルのスポットは、「First Public School(最初の公立学校)」となっている。「ベンジャミン・フランクリンも通ったアメリカで最初の公立学校の跡地を示すため、歩道にモザイクが残してある」と書かれている。私もこのモザイクを、アメリカ人が撮影したフリーダムトレイルのビデオの中で見ている。ビデオを撮影した本人も、これをフリーダムトレイルの一つとして紹介していたと思う。なので当然、私はこのモザイクを捜していた。しかし、スクール・ストリートに入るとすぐに「Old City Hall」というサインが見え、なんだか、フリーダムトレイルらしい名前で、これもフリーダムトレイルの一部なのかと、私は俄然興奮しだした。その奥には、ビデオでも見たベンジャミン・フランクリンの銅像が立っている。モザイクのことが気になりながらも、吸い込まれるようにこの「ボストン旧市役所」に入った私は、夢中でカメラのシャッターを切った。フランス式のとても美しい建物である。私のテンションが上がったのも無理はない。しかし、フリーダムトレイルの7番目のスポットは、どうやら「ベンジャミン・フランクリンの銅像」らしい。いや私としてはやはりモザイクの方がオリジナリティーがあり、こっちを本式とすべきだと思うのだが、私はとうとうこのモザイクを発見せずに終わってしまった。なんと言う屈辱か !フリーダムトレイル完全制覇を目指していた私には、大変無念でならない。
何した最初のアメリカ人の狩り狩り
夫は、旧市役所の中に入り、壁に書かれた大きな説明を読み出した。そこには、「ボストン公立ラテン学校」と書かれている。つまり、この旧市役所は、アメリカ初の公立学校跡地の一部に立てられているらしいのだ。この学校は1635年に設立され、無料であった。この近所で生まれたベンジャミン・フランクリンも、退学になるまではこの学校に通っていた。ベンジャミン・フランクリンは、アメリカ建国に貢献した「建国の父」の一人で、政治活動の他にも、発明や本、新聞の出版など、多分野において才能を発揮した。彼の肖像画は、アメリカの100ドル札にもなっている。私は「アメリカ文学」の授業で、彼が書いた「フランクリン自伝」や「富に至る道」を読んだ。大変面白い本で、日本語にも訳されているので(実は私は、日本 に帰った時に翻訳書を購入し、アメリカ文学の授業を乗り越えた!)、読むのをお勧めする。入口から奥には行かなかったが、旧ボストン市役所は、中にステーキハウスが入っているらしい。
オールドコーナー書店
この建物は昔、「オールド・コーナー・ブックストア」という名で、有名な著者の本を数多く出版したらしい。その有名な著者達には、「エマソン」、「ソロー」、「ストー夫人」など、「アメリカ文学」の代表的な人たちが含まれているので、彼らの本を読んでいる私は、訪れるのを楽しみにしていた。しかしこの建物は、宝石店になっていた!大変残念である。せめて、本屋であって欲しかった。このオールド・コーナー書店は、ベンジャミン・フランクリンの銅像がある旧市役所のすぐ近くにある。
どのような法律は、ブッシュ大統領が経ちました
この建物の前に若者が集まる広場があり、なにやら音楽が奏でられていた。後で調べたところ、ここにある銅像は、19世紀の中ごろ起こったアイルランドのポテト飢饉で、アメリカに入植したアイルランド人らしい。私の夫はアイルランド人の血を引いているので、そうと知っていれば、写真の1枚でも撮っていたのだが、その時は、フリーダムトレイルに含まれていないその場所を、無視する事にした。その時はまだ、最初の公立学校跡のモザイクを捜していたので、正直言って、その人だかりが少々鬱陶しいと思ったほどである。それにしても、あのモザイクはいったい、どこにあったのだろう。
オールド・サウス集会場
私がこの辺りで勘違いをし、公立学校のモザイクが見つけられず、その結果、この先の「旧マサチューセッツ州会議事堂」と、その建物の前にあるはずの「ボストン虐殺地跡」も見つけられなかったのには、私なりの理由がある。この小さな一角には、「オールド」が付いた場所が多すぎるのだ。ガイドブックにある写真は、どれもブロック造りで、同じように見える。モザイクが見つけられなかった私は、この「オールド」づくめで頭の中がかなり混乱しており、どれがどれだか、わからなかったと言うのが事実だ。しかし、この写真にはしっかり「Old South Meeting House」と書いてある。なので、私達がここに行ったのは、間違いない。
建物の中に入ると、博物館があるらしく、受付でチケットを買わなければならなかった。ここのチケットは5ドルだが、同じフリーダムトレイルにある「ポール・リビアの家」に入るチケットとあわせて買えば、8ドルだと言う。私は「ポール・リビアの家」のチケットも5ドルだと思い(確かにその受付嬢は5ドルだと言った!)、10ドルが8ドルになるならお得だと思ったが、あとでポール・リビアの家に行った時、そのチケットは3ドル50セントだとわかった。
博物館の中は写真撮影禁止だったので、私は写真を撮らなかったが、私が見たアメリカ人のビデオでは、こっそり撮影されていた。彼はそれを「ゲリラ作戦」と呼んでいた。そんな勇気のない私は、ミュージアムの土産物売り場で、ポストカードを買うにとどまった。中は白色で統一されており、中央の演壇前には、長椅子がたくさん置かれていた。この頃の集会場の特徴なのか、各ベンチは、ボックスで囲まれている。今回、フリーダム・トレイルの一つ「オールド・ノース教会」の中にも入ったが、そこも同じように、一つ一つのベンチがボックスで囲まれており、ちょっとした個室気分なのである。
私達が中に入った時、小学生を相手に、講義が行われていた。説明していた若い女性によると、ここでは大きな声で話した者勝ちだったらしく、その光景を再現するのに、小学生達に大きな声で叫ばしていた。このデモンストレーションは、毎回行われるらしい。ここでは愛国者達が、イギリス政府に反逆するための会議が行われ、その中の一つが「ボストン茶会事件」に発展した。ということは、アメリカ独立のための話し合いが行われた、歴史的に大変重要な場所だ。その当時のアメリカ国民は、イギリス政府がかけた高い税金に苦しみ、税金を払わなければ、仕事ができないなど、重い刑罰が科せられたのである。こうしてアメリカ建国の歴史を学ぶにつれ、独立するのはどれだけ大変なことだったのだろうと思う。アメリカがか� ��て植民地で、他国からの支配に苦しんだなどというのは、今の私達の生活からは想像もできないが、この頃の人たちが行った努力を忘れてはならないと思う。
この集会場は一階が博物館になっており、地下に土産物屋がある。私はこのショップでポストカードを買ったが、レジをしていた女性が、「郵便局をお捜しですか?」と言う。私はそのポストカードは自分用にと考えていたのだが、他の手紙を出さなければならなかったのは事実だった。
「郵便局は、そのドアを出た所にあります。その近くにベンジャミン・フランクリンが生まれた場所もあるので、行ってみてはいかがですか?」
彼女のアドバイスに従い、カンザスシティーから持ってきた手紙を郵便局で投函し、さて、ベンジャミン・フランクリンの生家を探そうとした。しかし良くわからない。更に困ったことに、建物の正面玄関からでたわけではないので、フリーダムトレイルの赤い線が引かれていない。しかし、私達が出てきた集会所の裏側のドアから、また中に入ることができない。そうである。私達はここで、迷子になったのである。
<フェンネル・ホール編に続く>
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